台の森 100 年の板倉と
版築と土壁のギャラリー
SATOMI KILN SPECIAL FEATURE ARCHIVE
はじめに
ここに記すのは、2018年の秋に積水ハウスの佐藤哲氏より相談を受け、2020年夏に完成した小さな建物、台の森ギャラリーにまつわる記録です。屋敷林に囲まれた板倉の解体に始まり、伐採、製材、建築のデザインとコンセプト、そして一年に渡る現場施工。
その一連の出来事は、近年なかなか実現することのない、「そこにあるものを使い、みんなで力を合わせてつくる」建築となりました。もしかすると壊され、捨てられてしまうかもしれなかった森の中の古い板倉。100 年は経たであろうその建物をまた活かし、共に月日を過ごし成長した樹々と、一つの建築になり守られる。
見たことのないもの、経験したことのない私の提案した建築の行為に対してご理解を頂き、完成に向けて信頼して頂いた、土地の所有者である佐藤幸子様、昌枝様、積水ハウスの佐藤哲様、これからギャラリーを運用される田代里見様、成様、設計申請に携わり同時に家庭を守ってくれた妻の桃子、瑞月、並びに関係された多くの皆様に深く感謝を申し上げます。ありがとうございました。
2020年 7月
木工房 瑞 杉原敬
2018 年 10 月
始まりは、この土地にある大きくなってしまった屋敷林の木々を伐採し、いくつかの建物を作るのだが、その切った木をどうしたら有効に使えるか、といった相談でした。住宅街に囲まれたその土地には、主に北側と西側に杉の木、その辺りを縫うように竹林があり、周囲からは中の様子が伺えない程、草木に覆われていました。
中に入るほど様子は一変して、今は主のいなくなった母屋があり、路地や東屋も配置され、また古い井戸も二つありました。「庭は傘をさして歩けるくらいの広さが望ましい」と言われますが、かつてはそのように広くゆとりのあった心休まる庭であったと思います。欅、胡桃、松、栗、桜、柿、樫、椿、様々な雑木が、そこへ植えたであろう主の思いを恐らくははるかに超えて、広い敷地の周りにある杉と共に数十年の時を経て大きな森へと成⾧していました。
また、その時にひときわ私の目を引いたのは、そこにある古い板倉でした。築 100 年以上と推定されるこの倉は、宮城県ではよく見られる工法で建てられた物で、それほど大きなものではありませんでしたが、落とし込みの壁板は全て松の木、しかも節の少ない根杢(ねもく)と言われる部分を多用したものです。
一般的な板倉の落とし込み壁は多くが杉板で、それも節のある材、幅も 15cmから 20cm位の物が多い様に見受けられる中で、ここの倉のそれは他と一線を画す松の大径木を使った贅沢な作りであった事が、私にも特別な思いを起こさせることとなりました。伝統的な建築に職人として携わっていると、このように古い建築物や什器等の生活用品に触れる機会がままあります。
これらをばらしたり直してまた組み立てる作業の中で、かつてそれに携わった職人衆の息遣いや想いを感じ素材の由来やその扱いを知ることが、自分のやってきた仕事、これから進もうとする道にに自信と反省を与えてくれます。物は声を発しませんが、それはまるで数世代、それ以上前から繋いでくれた人々の、生きざまの代弁者であるように感じます。
そしてこの板倉を再度利用し、これから切られる木々と併せてギャラリーにできないかと。最初の発案は積水ハウスの佐藤哲さんであったと思います。建築という形で遺された木々の命、100 年前を生きた職人の手技と生き様に応えられる器を作ることがその時から僕のとても大きなテーマとなりました。
解体、伐採、製材
板倉は 2 間×1 間半(3.64m×2.73m)の小さな作りでしたので、解体にはさほど時間を要しませんでした。中に残された什器を運び出し、瓦を下ろします。(現在、瓦のいくつかは版築上の壁、什器の一部を展示用の棚などに再利用しています。)屋根、桁、梁、落し板、貫、柱、土台の順番で解体。構造材と落し込み板には、後にわかるようにテープを貼り番付を書きます。いったん南三陸の私の作業場に運び込みました。
建物が撤去されてから樹木の伐採。この時に残っていた母屋の方は傷みが激しく、修理して使うことが難しいことから解体する運びとなりました。二期に分けての伐採の後、南三陸町歌津にある阿部製材所へと運搬。
伐採の際にはおおよ上の建物の計画から樹木の⾧さを決め、玉切り(⾧さに切ること)をしてもらいます。伝統的な木造建築では木組みの為、材の継ぎ手にあたる部分の⾧さが金物で接合する現代の一般建築より余分に必要となります。丸太の太さから用途を決め 4.5m、6mといった⾧さを指定しました。切られた木の種類は杉が最も多く、このギャラリーの梁(もっとも太い物 4 本)、屋根垂木(全て)、建具材(正面入り口の鏡板と勝手口一式)として使われています。
また使える状態の赤松が一本だけあり、それを建物の横方向で梁として使うため 11m。これは版築壁の上に横たわっています。そして現地の道路事情からこの⾧さの材を搬出することが不可能なため、ここでハツリ、墨出し、刻みを行っています。奥にある井戸の横には、立ち枯れた大きな栗の木がありました。通常、建築で立ち枯れたものは中の痛みがあったりするので使わないのですが、この栗の木は倒してみたところ十分使えそうでしたので、製材所へ。曲がり、入り組んだ形でしたので中心部分から半分に割り、入り口の扉両脇に立てることに。
解体された板倉の材料は、柱、妻梁、桁が杉、今回取り換えた土台と再利用した上り框は栗、落し込み板壁は松、そして中心にある梁は魔除けの意味合いから槐(えんじゅ)が使われていました。礎石には玉石を並べ土台が直接乗る構法でしたが、土台の栗は一部傷みが激しいところが見られたものの、今だ丈夫な物でした。礎石の玉石は現在ギャラリーの横で、飛び石に敷いています。
現場施工と版築
2019 年 7 月の後半よりギャラリーの基礎工事が始まりました。当初、コンクリートを使わない基礎も考えましたが、元の敷地に竹が群生しており、その根が将来的に版築壁などを傷める不安もあることから、通常の鉄筋コンクリートべた基礎の上に版築、栗の土台の下は布基礎の立上りを付けました。基礎工事と同時に里見窯の小屋を施工、完了後 9 月の中旬より版築部分に着手。
版築に使う土は、七北田川中流域にある丸藤興業の採取場で採れたヨナ土と呼ばれるものに、同じ川の砂利を約 7 対 3 の割合で混ぜています。この配合については、今回の左官工事を担当して頂いた今野左官さんにアドバイスを頂き、試験体をいくつか作った上での判断とした。また正面左手の後から作った版築では、右手の最初に作った方の仕上がりから判断し、砂を 6%程混ぜています。これは、粘土分の収縮による大きな割れを軽減し、また季節が冬に近づき材料の乾燥が遅くなってきたことから、施工のしやすさを加味したものです。
版築とは
版築とは古来からある強固な壁面や地盤を作る手法で、世界各地にみられます。古くは万里の⾧城などの城壁や、奈良、京都などで見られる築地塀もこれに似たものです。社寺建築の基礎(基壇)などの作りにみられ、千年以上にわたり不当沈下の無い安定した地盤が得られること、また近年まで河川堤防などでも同じような手法で作られていたことが記録にあります。日本では住宅などの建築であまり例を見ることはありませんが、今回は千葉県にある土太郎村の中島健一郎様のご自宅や、建築家である遠野未来さんの事例などを参考とさせていただきました。
版築の工程詳細
型枠
今回の版築は標準の壁厚 1.2m(一部 60 ㎝)、高さ 2.2m(耐圧盤コンクリート面より)となることから、相当の土圧が生じると考えられ、そのために十分な木枠とする必要があります。コンクリート面に周囲土台をアンカーボルトで止め、その内側に 9 ㎝角の柱、そして枠板には杉の 4.5 ㎝厚の物を使っています。この枠板はギャラリーの二層になった上部の屋根板として再利用しています。柱頭頂部を同じ 9 ㎝角材で緊結し完成。
土の攪拌
採取場で重機によりあらまし攪拌してあるものを、現場で再度耕運機を使い細かく攪拌。砂もこの時点で入れます。この際に土をしっかりと乾かす事が仕上がりの状態を決める事となり、天候に左右されます。また今回は土の元々の成分に石灰質が多く含まれていることから、追加の石灰は入れていません。
突き固めと竹の骨組み
型枠の中に土を運び入れ、均等な厚みとなるよう均します。突き固める前の厚みで約 10 ㎝。これを約 6 ㎝の厚みになるまで突き固めます。突き固めが一通り終わればすぐに次の段にかかります。10 ㎝を 6 ㎝に。この作業を 36 段重ね、コンクリート耐圧盤より 2.2mの高さにしたものが今回の版築壁です。
版築壁は基本土の塊ですが、耐震性を向上させるために中に竹の骨組みを入れています。下から 10 ㎝程上がった所から縦方向の竹を立てます。間隔は 50 ㎝程で人が間をやっと通れるくらいです。横方向にも竹が入ります。下から 80 ㎝程度と 150 ㎝程度の箇所に、それぞれ90度向きを変えて2段ずつ入ります。この横方向の竹を縦方向の竹と縄で結びます。このことによって縦と横の骨組みがつながり、全体的な強度が出ます。
また骨組みとは異なりますが、土圧による型枠の開きを抑えるために、横方向に3段、鉄筋が入ります。それを外側から締め、型枠にかかる土圧に抵抗するとともに、縦の竹と緊結することにより揺れに対しての抵抗を増しています。この手法については東北工業大学の武山倫先生にアドバイス頂きました。
型枠ばらしと養生期間
今回、版築の最上段を仕上げた後、速やかに型枠のばらしを行いました。型枠の外された版築の表面はびっしょりと濡れていて、また杉の木枠の跡が木目や節の後もはっきりとわかるくらい残されていました。この状態に素屋根を置いて数か月養生と乾燥の期間としました。初めに作った正面向かって右側の版築壁は、型枠をばらして数週間後には乾燥が進み、比較的大きなクラックが現れました。これは粘土分の乾燥による収縮で、竹小舞による荒壁の割れと同じ作用ですので、強度上の不安定さからくるものではなく、むしろ土が強すぎたせいで起こったものと考えられます。そして次に作った左側の版築では 6%程の砂を混ぜましたが、予想通りクラックは小さくなり分散する形となりました。
今後
版築は特殊な建築手法であるとはいえ、様々な可能性を持っていると思いました。造形的な部分では、今回の直線的な形だけではなく曲線や凹凸のあるもの、また築地塀にみるように中間に異なった素材を入れていくこともできるかもしれません。また、建築の中で蓄熱や調湿の効果が期待できると同時に、外部からの音や電波なども防ぎます。これらは今回の実例をもとに次に生かす課題でもあります。
日本の伝統木造
軸組み
このギャラリーは日本の伝統技法による木造建築です。外観や構造が似ている伝統的木造建築はアジア諸国に見られますが、その建つ土地の環境や文化によって少しづつの違いがあります。僕が日本の伝統的木造建築で最も特色のある部分は何かと聞かれたら、自立する木造の軸組、その加工の精密さと強度、この二点をまず挙げると思います。
日本列島は地球上でもっとも地震の頻発する地域です。大きな台風の通り道ともなります。そこに建築として立ち、残ってきた物が木造の軸組の技術の中に生かされています。ほとんどの大陸に建つ物は壁が先にあることを前提としています。その壁は土であったり、石であったりレンガであったり、場合によっては丸太や竹でできたものもあります。これらは壁を作ってから屋根を載せます。
日本の木造建築は、柱や梁等の軸組を組んだら桁を載せ、すぐに屋根を葺きます。幾トンもの荷重が上からかかっていて、さらに揺れたとしても立っていられるのが、日本の木造建築の大きな特徴だと思います。そしてそれを実現するための木組みの技術。「適材適所」という言葉がありますが、大工を⾧年やっていると特に実感します。
湿気の多い場所に使う材、強度が必要な所に使う材、複雑な加工に耐えられる材、等々。木材はそれぞれ一⾧一短です。腐りにくいが、割れやすい。丈夫だがねじれやすい。加工しやすいが強度に欠ける。それらの癖を知り、経験した上で組んでいきます。そしてこの時に大切なことは「総持ち」という事です。片方が弱ければ片方が補う、一つだけに持たせずお互いが持ち合う、右に作れば左も作るといった風に、同じ部材でも相互に作る、離れた箇所が支えあうといった工夫が一つの建物を支、自然の力に耐えるように作られます。
これは木組みの部分だけでなく、屋根の作りや、左官の壁、建具のしつらえ等すべてに関係しています。さらに木を育てる森や土、そこに暮らす人たちとも深い関係と歴史の上に成り立っています。「木を組んで人を組む」と昔の棟梁が言いましたが、まさにそれに向けて僕も精進している最中だと思います。
貫工法と板倉工法、屋根、壁の造作
この建物の中に、日本の伝統側木造建築の二つの大きく異なる作りがあります。一つは貫工法で、もう一つは板倉工法です。どちらも軸組を補完する壁の作りです。貫工法は、柱を横に貫通する板によって建物を支えています。よく例えに出すのが清水寺の舞台です。舞台を支える下が全て貫工法で構成されています。木でできたジャングルジムみたいなものです。ギャラリーの外周土壁部分には貫が入り、竹小舞下地の上に土が塗ってあります。
板倉工法は、柱に掘られた溝の中に板を落とし込む作りです。貫工法と併用されている事もあります。こちらは各地にみられる神社やお宮の作りで、古くは穀倉であったといわれます。古くは大木の節の無い部分を割って製材した板をはめ込んでいましたが、木挽きの製材技術が進むにつれ、節のある小径木も板に製材できるようになりました。このギャラリーの板倉にはめてある松の板は、全て木挽きによる製材です。
外壁の焼杉と屋根、天井の板
杉材は国内で最も安く流通していながら、それの価値を理解されずに山に残されているものでもあります。地域資源として利用するためにその価値を再認識する必要がありますが、なかなかそれを提示している建築が少ないのが現況です。このギャラリーでは断熱材を使わない代わりに、外周部の板厚を厚くすることで断熱の効果を期待しています。屋根板は2層になっていますが、ギャラリー内部から見上げた杉板天井が一層目で 45 ㎜、その上に成 135 ㎜の杉垂木が入りその間が空気層となります。二層目も同じく杉板の 45 ㎜を貼ってあります。外壁の焼杉は 30 ㎜の物を貼り、同じ厚みの目板を重ねています。杉は焼くことで耐候性が上がり、また美観的にも優れたものになります。ただ、触ると黒くなりますが。
竹小舞、土壁、三和土と共同作業
2020 年の初頭から徐々に広がり、春先には日本各地でも騒ぎを引き起こした新型コロナウイルスにより、公立学校がお休みになりました。台の森の同じ敷地にあるイタリアンレストラン、ラルゴの息子さんアツシ君は早すぎた春休みを竹小舞作業で埋めることになりました。
竹は丸の物を登米市にある佐々木竹材店から購入。今野左官さんの指導の下、4 人の女性たちが割ってくれました。節をナタで落し、小端を面取りしてささくれないようにします。柱間の⾧さよりちょっと⾧めに切った物を用意し、ノミで穴を開けたところにしならせて差し込みます。小学校 5 年生だったアツシ君は 2 日で覚えて、一人でできるようになりました。その後お手伝いに来てくれた大人の方々に指導するまでに。約 10 日程で竹小舞は完成。夜に点けた明かりが竹小舞の模様を映し出す様は幻想的です。
壁に塗る為の土は、敷地の地下 2mくらいの所から掘り出されたものを使いました。もともと近くで瓦を焼いていた所もあったそうで、かなりしっかりとした粘土質の土が 4t程採れ、これをみんなでふるいにかけ砂利を取り除き、切った藁と水を混ぜ、足でこねて荒壁土の完成。大勢の方がそれぞれできる所をやってくださり、荒壁付けは 2 日で完了しました。この同じ土をさらに細かいふるいにかけ、今度は職人の手によって砂を配合し(これはとても繊細な作業で、経験と勘がなければできないものです)、中塗り仕上げとしています。
もう一つこの建物で特徴的な壁は、板倉の内部に作った木摺り壁です。はば 40 ㎜位、厚み 7 ㎜程度の細かな板を隙間を等間隔に開け下地にしています。ここの壁も荒壁土と同じものを塗り、仕上げとしています。もちろんこの上には中塗りや漆喰壁という仕上げもできますが、今回はあえて荒壁のままとしました。
土間、三和土
最後に残った作業が土間の三和土(たたき)でした。これは版築に使った土と同じ配合の物に、石灰とにがりを配合しています。砂利で 10cm程かさ上げした上に 15 ㎝程の厚みになるように三和土の土を入れて締め固めています。最後はノロを鏝で押さえて仕上げて頂きました。この土間部分は地面との間をコンクリートなどで遮断せず、地面の湿気なども上がるようになっています。
共同作業
近年の建築では、施主や一般の方が建築現場に入り直接施工に参加するという事は見かけることが少なくなりました。家に限らず、身の回りの物を自分で作るという“営み”の多くを他人の手にゆだねてしまっている。もう少し自分たちの手に取り戻しても良い様に思います。伝統として残ってきたもう一つの大切な要素は、シンプルであること。わかりやすく再現しやすい物。これらの要素はけっして美しさや奥深さと相反することでない。そしてそこに生まれる共感は、理解を超えた感性であるように僕は思います。
